2003年 06月 21日
「アメリカが思い出したい日々」: "Hairspray"
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2002-2003シーズンのB’wayミュージカル最大のヒットが、“Hairspray”であることに異論のある人はいないであろう。最近でこそ勢いは衰えているが、オープンして1年以上、連日ほぼ劇場いっぱいの客を集めていたし、その年のトニー賞の作品賞を受賞し、まだしばらくは続演されることだろう。私はオープン直後に2回観ているが、たしかに面白かった。周りの客もカーテン・コールでは総立ちだった。しかし、熱狂する周りの観客を見て、天邪鬼の私は思った、そこまでこのショウ感動ものの秀作だろうか?たしかにスコアはよい、(私が見たオリジナル)キャストは皆芸達者だった(特に母親役のHarvey Fiersteinは素晴らしかった)。でも、ストーリー展開はちょっと強引だし、結末はいささか予定調和気味だ。しかし、観客はそんなこと気にするそぶりも見せないし、批評もそんな点には触れもしていなかった。何故だろう?私には思い当たることがひとつある。彼ら観客がこのショウを手放しで受け入れるのは、ここで描かれている世界が、アメリカが思い出したい日々だからだ。
物語の背景となっているのは、1962年のボルティモア。おデブちゃんの高校生Tracy Turnblad(Marissa Jaret Winokur)は、親友のちょっとおつむのねじの緩いPenny Pingleton(Kerry Butler)と共に明るく毎日を過ごしている。彼女達の一番の関心は、テレビの“Corney Collins Show”である。これはごく普通の高校生を一般公募でスカウトし、スタジオで踊らせることで即席スターにしてしまう、オーディション番組の走りのようなもの。当時の社会背景にあって出演者は全員白人ではあるが、このショウは月に一度だけ「ニグロ・デイ」という日を設け、黒人が参加できるショウを行っている。ある日、地元で“Collins Show”のオーディションが開かれることを知ったTracyはPennyと共に、母親Edna(Fierstein)の反対を押し切って学校をサボって参加するが小太りの容姿では相手にもされない。おまけに学校をサボったのがばれて放課後の居残りを命じられてしまう。落ち込むTracy。しかし彼女はここで、やはり学校の外れ者である黒人のSeaweed(Corey Reynolds)と出会う。彼から黒人流のダンス・スタイルを学んだTracyは、今度はCollins(Clarke Thorell)自身に見出され、“Collins Show”の一員としてデビューする。そして、スターとなるのみならず、ショウでNo.1人気の男の子Link(Matthew Morrison)の「恋人」の役をプロデューサーの娘で、それまでの「お姫様」役だったAmber(Laura Bell Bundy)から奪い取ってしまう。(その間にPennyはSeaweedと恋に落ちる。)誰にも注目されないおデブちゃんから一気に世間に注目されるようになったTracyは一躍スターとなり、母親のEdnaはマネージャーとして専業主婦を廃業する。有名人となったものの、黒人流の音楽とダンスを身につけることで、“Collins Show”の仲間入りをしたTracyには、ニグロ・デイが月に一度だけであることに納得がいかない。ついには黒人達の仲間とデモ隊を組織して番組の収録会場に乗り込むがあえなく逮捕。Amberとその母親でショウのプロデューサーVelma(Linda Hart)はほくそえむ。(Velmaは自分のショウに黒人をレギュラーで出すなんてとんでもないと考えている。)
1962年という時代設定は50年代と60年代の端境期にあたるわけだが、ここでは60年代に起こる様々な社会変動の発端が描かれている。1つは黒人社会と白人社会の分離の終わりである。これが音楽の世界で最初に始まったのは、この芝居の中だけのことではない。ジャズやソウルといった音楽が白人の間でも聞かれるようになり、エルビス・プレスリーのように黒人の音楽を歌い、そして踊る(「骨盤エルビス」ですな)ことで、人気を獲得する歌手が現れたのもこの時期。そして、音楽の出会いは必然的に他の側面での黒人社会と白人社会の「出会い」を生み出す。TracyやPennyといったキャラクターは、60年代、つまり新しい時代を舞台上で具現している。自分達の両親の世代のように、黒人と白人が分離されていることを当然とは受け止めず、「何故」という疑問を持つ。黒人であるSeaweedは逆にそれをおかしいとは思わず、世の中そういうものだと受け止めているが、それでも白人であるPennyと恋に落ちる。白人娘と黒人男が付き合うなどというのは以前のアメリカでは考えられなかったことだ。一方で親たちの世代はそういう変化に戸惑う。戸惑いつつもそれを受け入れるのが母親のEdna。彼女は家庭の主婦であり家を守るのが仕事と心得ているが(まあ、家計を支えるためにクリーニング屋を営んではいるが)、娘のマネージャーとして世の中に出て行く(専業主婦の終わりというのも、社会変化の1つである。)。Amberの母親のVelmaはそうした変化を受け入れられずに抵抗しようとする。彼女は50年代のアメリカそのものなのである。
留置所に収監されたTracy、Edna、Pennyや一同は保釈されるが、Tracyだけはそのまま留置所に留め置かれる。“Collins Show”で「プリンセス」を決める人気投票が迫っており、Tracyにその座を奪われるのを恐れたVelmaの陰謀なのである。そこへ忍び込んだのがLink。彼はTracyを番組の中でだけでなく、本当に愛するようになっていたのだ。2人は留置所を脱獄し、Ednaや黒人仲間たちと共に“Collins Show”収録の会場へと乗り込む。
“Hairspray”では、60年代の新たな価値観の芽生えが描かれているが、それと同時に50年代以前の価値観の中で、アメリカ人が失いたくなかったものも描かれている。それはお互いを思いやる暖かい家族の絆である。それを具現しているのは、もちろんTurnblad家の人々。この家族は一見すると普通の家族には見えない。母親はというと巨漢でダミ声の「2丁目マダム」的な容貌(役の上では女だが演じているのは男である)。父親は仕事と言えるのかどうかもわからない“Joke Shop”(日本語なら「お笑いグッズ屋」といったところか?)を営んで生計を立てている。そして、娘はデブの劣等生。でも落ち着いて見ると、このTurnblad家は非常に理想的な家族なのだ。まず、父親のWilbur(Dick Latessa)は娘を心から愛している。Tracyは母親の反対を押し切って“Collins Show”のオーディションを受けたいと父親に懇願するが、その時の父親の言葉が、「もし、お前が本当にそれをやりたいと望んでいるのなら、迷わずやりなさい!」である。母親のEdnaはガミガミと口喧しいが、それでも娘のことをいつでも思っている。そして何よりWilburとEdnaはお互い愛し合っているのである。2幕の半ばで歌われる2人のデュエット“Timeless to Me”はこの異様な外見の夫婦によるあまりにも美しい愛の賛歌である。Latessaはこの役でトニー賞の助演男優賞を受賞したが、その最大の理由はこの見た目にはギャグとしか映らない状況で、愛のナンバーを真面目にかつ見事に説得力をもって歌いきったことによるものだと思う。余談だが、Wilbur役のオーディションに関わっていたFiersteinはLatessaを選んだ理由を、彼だけが本気でEdnaを愛していることを表現していたからとインタビューで述べていた。そして娘のTracy。両親の暖かい愛情に恵まれて育った彼女には、容貌から来るコンプレックスなどかけらもない。見た目を除いてはTracyは明るく正しい青春ドラマの主人公にでもなりそうな高校生なのである。この理想の家族が、50年代のホームドラマのように美男・美女によって演じられていないことで、逆説的に、あの時代にあった家族愛の素晴らしさを強調できていると思う。
1962年は、アメリカにとって希望に溢れた年だった。50年代からの家族の絆はまだ健在であったし、白人と黒人の分離によって生じた社会の不自然な歪みは、公民権運動の盛り上がりで一気に崩れ去ろうとしていた。あの時アメリカ人達は思っていたに違いない。自分達の社会はこれからずっといい方向に進んでいくに違いないと。何故ならあの時にはまだ、街にはマリファナを吸う長髪の若者もいなければ、ベトナム戦争が泥沼になることなど予想もつかなかった。離婚率はあがり暖かい家族の絆なんていう言葉が死語になることは誰も考えも及ばなかったのだ。あの日々をもう一度思い出したい、それは多くのアメリカ人たちにとっての密かな願いなのではなかろうか。
Tracy達は“Collins Show”に乱入、見事にVelmaとAmberの陰謀を打ち砕く。そして「プリンセス」に選ばれたTracyが、“Collins Show”はこれから毎日「ニグロ・デイ」になること、黒人と白人は今後一緒にひとつの社会を作っていくのだと高らかに宣言するところで、この芝居は幕となる。
だがTracyよ、今の君には知る由もないことだが、アメリカの社会は、音楽の様に簡単には融合してはくれなかったのだよ。40年たった今でも、アメリカの高校には白人と黒人のグループがいるのだ。黒人と白人のカップルには今でも世間は奇異の視線を投げかけ続けている。白人女優のIdina Menzelと結婚した黒人男優Taye Diggsに脅迫状が送りつけられたのはついこの間のことだ。だから、SeaweedとPennyのカップルも同じような運命をたどることだろう。それもSeaweedがベトナムで戦死していなければの話だが。
カーテン・コールでスタンディング・オベーションを送る観客達も、そのことには気づいているのだろう。
物語の背景となっているのは、1962年のボルティモア。おデブちゃんの高校生Tracy Turnblad(Marissa Jaret Winokur)は、親友のちょっとおつむのねじの緩いPenny Pingleton(Kerry Butler)と共に明るく毎日を過ごしている。彼女達の一番の関心は、テレビの“Corney Collins Show”である。これはごく普通の高校生を一般公募でスカウトし、スタジオで踊らせることで即席スターにしてしまう、オーディション番組の走りのようなもの。当時の社会背景にあって出演者は全員白人ではあるが、このショウは月に一度だけ「ニグロ・デイ」という日を設け、黒人が参加できるショウを行っている。ある日、地元で“Collins Show”のオーディションが開かれることを知ったTracyはPennyと共に、母親Edna(Fierstein)の反対を押し切って学校をサボって参加するが小太りの容姿では相手にもされない。おまけに学校をサボったのがばれて放課後の居残りを命じられてしまう。落ち込むTracy。しかし彼女はここで、やはり学校の外れ者である黒人のSeaweed(Corey Reynolds)と出会う。彼から黒人流のダンス・スタイルを学んだTracyは、今度はCollins(Clarke Thorell)自身に見出され、“Collins Show”の一員としてデビューする。そして、スターとなるのみならず、ショウでNo.1人気の男の子Link(Matthew Morrison)の「恋人」の役をプロデューサーの娘で、それまでの「お姫様」役だったAmber(Laura Bell Bundy)から奪い取ってしまう。(その間にPennyはSeaweedと恋に落ちる。)誰にも注目されないおデブちゃんから一気に世間に注目されるようになったTracyは一躍スターとなり、母親のEdnaはマネージャーとして専業主婦を廃業する。有名人となったものの、黒人流の音楽とダンスを身につけることで、“Collins Show”の仲間入りをしたTracyには、ニグロ・デイが月に一度だけであることに納得がいかない。ついには黒人達の仲間とデモ隊を組織して番組の収録会場に乗り込むがあえなく逮捕。Amberとその母親でショウのプロデューサーVelma(Linda Hart)はほくそえむ。(Velmaは自分のショウに黒人をレギュラーで出すなんてとんでもないと考えている。)
1962年という時代設定は50年代と60年代の端境期にあたるわけだが、ここでは60年代に起こる様々な社会変動の発端が描かれている。1つは黒人社会と白人社会の分離の終わりである。これが音楽の世界で最初に始まったのは、この芝居の中だけのことではない。ジャズやソウルといった音楽が白人の間でも聞かれるようになり、エルビス・プレスリーのように黒人の音楽を歌い、そして踊る(「骨盤エルビス」ですな)ことで、人気を獲得する歌手が現れたのもこの時期。そして、音楽の出会いは必然的に他の側面での黒人社会と白人社会の「出会い」を生み出す。TracyやPennyといったキャラクターは、60年代、つまり新しい時代を舞台上で具現している。自分達の両親の世代のように、黒人と白人が分離されていることを当然とは受け止めず、「何故」という疑問を持つ。黒人であるSeaweedは逆にそれをおかしいとは思わず、世の中そういうものだと受け止めているが、それでも白人であるPennyと恋に落ちる。白人娘と黒人男が付き合うなどというのは以前のアメリカでは考えられなかったことだ。一方で親たちの世代はそういう変化に戸惑う。戸惑いつつもそれを受け入れるのが母親のEdna。彼女は家庭の主婦であり家を守るのが仕事と心得ているが(まあ、家計を支えるためにクリーニング屋を営んではいるが)、娘のマネージャーとして世の中に出て行く(専業主婦の終わりというのも、社会変化の1つである。)。Amberの母親のVelmaはそうした変化を受け入れられずに抵抗しようとする。彼女は50年代のアメリカそのものなのである。
留置所に収監されたTracy、Edna、Pennyや一同は保釈されるが、Tracyだけはそのまま留置所に留め置かれる。“Collins Show”で「プリンセス」を決める人気投票が迫っており、Tracyにその座を奪われるのを恐れたVelmaの陰謀なのである。そこへ忍び込んだのがLink。彼はTracyを番組の中でだけでなく、本当に愛するようになっていたのだ。2人は留置所を脱獄し、Ednaや黒人仲間たちと共に“Collins Show”収録の会場へと乗り込む。
“Hairspray”では、60年代の新たな価値観の芽生えが描かれているが、それと同時に50年代以前の価値観の中で、アメリカ人が失いたくなかったものも描かれている。それはお互いを思いやる暖かい家族の絆である。それを具現しているのは、もちろんTurnblad家の人々。この家族は一見すると普通の家族には見えない。母親はというと巨漢でダミ声の「2丁目マダム」的な容貌(役の上では女だが演じているのは男である)。父親は仕事と言えるのかどうかもわからない“Joke Shop”(日本語なら「お笑いグッズ屋」といったところか?)を営んで生計を立てている。そして、娘はデブの劣等生。でも落ち着いて見ると、このTurnblad家は非常に理想的な家族なのだ。まず、父親のWilbur(Dick Latessa)は娘を心から愛している。Tracyは母親の反対を押し切って“Collins Show”のオーディションを受けたいと父親に懇願するが、その時の父親の言葉が、「もし、お前が本当にそれをやりたいと望んでいるのなら、迷わずやりなさい!」である。母親のEdnaはガミガミと口喧しいが、それでも娘のことをいつでも思っている。そして何よりWilburとEdnaはお互い愛し合っているのである。2幕の半ばで歌われる2人のデュエット“Timeless to Me”はこの異様な外見の夫婦によるあまりにも美しい愛の賛歌である。Latessaはこの役でトニー賞の助演男優賞を受賞したが、その最大の理由はこの見た目にはギャグとしか映らない状況で、愛のナンバーを真面目にかつ見事に説得力をもって歌いきったことによるものだと思う。余談だが、Wilbur役のオーディションに関わっていたFiersteinはLatessaを選んだ理由を、彼だけが本気でEdnaを愛していることを表現していたからとインタビューで述べていた。そして娘のTracy。両親の暖かい愛情に恵まれて育った彼女には、容貌から来るコンプレックスなどかけらもない。見た目を除いてはTracyは明るく正しい青春ドラマの主人公にでもなりそうな高校生なのである。この理想の家族が、50年代のホームドラマのように美男・美女によって演じられていないことで、逆説的に、あの時代にあった家族愛の素晴らしさを強調できていると思う。
1962年は、アメリカにとって希望に溢れた年だった。50年代からの家族の絆はまだ健在であったし、白人と黒人の分離によって生じた社会の不自然な歪みは、公民権運動の盛り上がりで一気に崩れ去ろうとしていた。あの時アメリカ人達は思っていたに違いない。自分達の社会はこれからずっといい方向に進んでいくに違いないと。何故ならあの時にはまだ、街にはマリファナを吸う長髪の若者もいなければ、ベトナム戦争が泥沼になることなど予想もつかなかった。離婚率はあがり暖かい家族の絆なんていう言葉が死語になることは誰も考えも及ばなかったのだ。あの日々をもう一度思い出したい、それは多くのアメリカ人たちにとっての密かな願いなのではなかろうか。
Tracy達は“Collins Show”に乱入、見事にVelmaとAmberの陰謀を打ち砕く。そして「プリンセス」に選ばれたTracyが、“Collins Show”はこれから毎日「ニグロ・デイ」になること、黒人と白人は今後一緒にひとつの社会を作っていくのだと高らかに宣言するところで、この芝居は幕となる。
だがTracyよ、今の君には知る由もないことだが、アメリカの社会は、音楽の様に簡単には融合してはくれなかったのだよ。40年たった今でも、アメリカの高校には白人と黒人のグループがいるのだ。黒人と白人のカップルには今でも世間は奇異の視線を投げかけ続けている。白人女優のIdina Menzelと結婚した黒人男優Taye Diggsに脅迫状が送りつけられたのはついこの間のことだ。だから、SeaweedとPennyのカップルも同じような運命をたどることだろう。それもSeaweedがベトナムで戦死していなければの話だが。
カーテン・コールでスタンディング・オベーションを送る観客達も、そのことには気づいているのだろう。
by sabrekitten
| 2003-06-21 00:00
| (Fake) Reviews