2004年 06月 20日
「記号化された世界に浸る快感」:"Bombay Dreams"
|
皆さんは「遠山の金さん」とか、「水戸黄門」なんかの定番モノの時代劇はお好きですか?私はほとんど見ないのですが、見る機会がある時には、それなりに楽しむことは出来ます。思うにあの手のドラマの醍醐味というのは、勧善懲悪ものの完全なワンパターンのストーリーを深く考えずに、作り手の言うがままに受け入れてしまう快感なんじゃないでしょうか。だから突っ込みを入れるなんていうのは以ての外です。黄門様が悪事が進行しているのに「様子をみましょう」と何もしないのを見て、何回様子を見たら気が済むんだ、いい加減に学べよな~、なんて思っちゃあいけない。あれは現実の世界の出来事じゃないのです。黄門様は人間じゃなくて「ヒーロー」という記号なのです。悪代官は「悪役」という名前の記号です。でなきゃ、あんなに「俺って悪いだろ~、ふっふっふ」なんて露骨に態度に表したりしないです。ちなみに本物の水戸光圀は将軍家でも持て余すような乱暴者で、都に置いておけないので諸国漫遊の旅に出されたそうです。(今で言うなら金持ちがドラ息子をアメリカに留学させるようなものか?)
そんな記号化・様式化された、最初から嘘であるとわかっている世界を、そのまま受け入れてしまうのは、勧善懲悪というパターンが本質的に人間の心に触れるものがあるからでしょうね。私はものを斜に構えてみるほうで、芝居でも、勧善懲悪なんていう世界に、むしろ疑問を呈するような作品に納得するほうですし、ここでもその手の作品を支持してきました。(最近では“Wicked”がそうです。)そんな私でも、心の底のどこかには、「俺が正義だ文句はあるか」といってやりたい欲求が少しはあることは認めざるを得ません。でも、そんな皮肉屋の私ですからちょっとやそっとのことでは勧善懲悪ストーリーにのめり込まされはしません。じゃあどうしたらいいのでしょうか?現実味を加える?いえいえ、逆です。どうせ信じがたい世界なのだから、ここは製作者には開き直って嘘の世界丸出しの物語を展開していただきたい。余計な要素はすべて取り払って、極端なまでにすべてを記号化していただきたい。ヒーローはひたすらカッコよく、悪役は自分の悪さに自己陶酔していただきたい。どうせ嘘なんだから、派手なほうがいい。セットはデカくてケバいほうがいい。そうだ、日ごろ「物語の途中で突然歌って踊りだすのがリアルでない」といわれているミュージカルの形式も、ここでなら無理なくはまるでしょう。リアルな世界を求めるぐらいなら最初からこういう作品は観ないのだから。
やっとミュージカルの話に入れました。さて、このような記号化された作品を映画という形で大量に送り出してきたのが、製作本数では世界最大の映画大国であるインドの“Bollywood Movie”コミュニティーです。ちなみにBollywoodというのはBombay Hollywoodという意味の造語です。このBollywood映画の世界をそのまま舞台に移植するという試みを行ったのが、ただいまB’wayにて続演中の“Bombay Dreams”です。Andrew Lloyd Webberの名前が表に出てきているので彼の作曲だと思い込んでいる方が多いようですが、彼はプロデュースをしただけです。代わりにタイトルの上にクレジットされているのが作曲担当でBollywood映画音楽を数多く手がけてきたA. R. Rahmanです。作詞がALWとの“Sunset Boulevard”、“Song and Dance”などのコンビで知られるDon Black。脚本はオリジナルのWest End版を書いたMeera Syalを引き継ぐ形で、大幅に改編した、“The Producers”、“Hairspray”の最近の2大ヒットミュージカルを手がけたThomas Meehanが担当しています。とまあ、製作チームの名前から挙げ始めたのは、この作品の出演者の多くが普段大きな役を得る機会がないインド系の俳優達で、名前を挙げても私を含めた誰にも分からないからということがあります。主演のManu Narayan、Anisha Nagarajanといったところは、B’wayのクレジットは今までのところ無いようです。
さて、例によってネタバレつきの粗筋など紹介しながら話を進めようかと思ったのですが、見てから書き始めるまで間が開きすぎて筋を忘れてしまいました!そんなわけで、確かこんな話だったんじゃないかなぁ~という感じで簡単にお話させてください。どのみち単純な話なので複雑にやれといわれても出来ないのですが、間違ってたらまあ笑って許してやってください。舞台となるのはボンベイのスラム街です。ここには貧しいながらも心優しい下層階級の人達が共同体を作って、それなりに幸せに暮らしています。その中の一人の若者で、観光客相手のガイドであるAkaash(Narayan)はいつかBollywood映画のスターになりたいと夢見ています。その平和なスラム街には開発業者による、立ち退き、取り壊しの危機が迫っているようです。そこへ訪れたのが有名なBollywood映画の監督の娘であるPriya(Nagarajan)です。彼女は父親のアシスタントを経た後、自分の映画を、しかもBollywoodの主流である華やかな映画ではなく、リアルなストーリーをインディ系の作品として作る事を試みています。そのモチーフとして選んだのが自らの婚約者でスラム街の救済プロジェクトを進めているVikram(Deep Katdare)です。Vikramと共に立ち上がったAkaashは、そのデモンストレーションを行うべく、Priyaの手引きで彼女の父親Madan(Marvin L. Ishmael)がプロデュースするミス・インディアをハイジャックして、そこでAkaashによる訴えかけを行います。その試み自体はAkaashが調子に乗りすぎて失敗してしまうのですが、そこに居合わせたBollywood映画の大女優であるRani(Ayesha Dharker)が見初めて、次の映画の相手役にと抜擢します。監督のMadanは賎民出身の若者を映画の主役になどとんでもないと渋りますが、彼以外とはは出演しないとRaniに駄々をこねられ止む無く納得、Akaashに自分の出自を隠すように厳命した上で承諾します。演技などしたことの無いAkaashは苦労をしますが、Priyaによる誘惑シーンの演技指導などもあって映画は大成功、Akasshはスターへの階段をまっしぐらに突き進みます。(ついでにPriyaは演技が本気になって婚約者がいる身でありながらAkaashに惚れてしまいます。)でもその過程で自分の生まれた場所である、スラム街とそこで一緒に育った、オカマのSweetie(Sriram Ganesan)らの友達との関係を断ち切ってしまいます。カメラの前で自分を育ててくれた祖母のShanti(Madhur Jeffrey)までおも他人扱いするAkaashにスラム街の人たちは、Akaashは別の人間になったと絶望します。
この1幕の粗筋を見ただけでも、この作品には日本の時代劇に見られるような「お約束」の設定がてんこ盛りであるのがお分かりいただけるでしょうか?例えば、スラム街で仲良く楽しく暮らす貧民たち、という部分、スラム街を貧乏長屋に置き換えただけでもう、日本の時代劇の設定と変わらないでしょ。また、主人公が夢見る若者で、ちょっと向こう見ずなところなんかもありがちなパターンです。また、スター女優のRaniは我がままでお高く留まっており、いいとこのお嬢様のPriyaはとても控えめで賢いというのも、なんとなくお決まり通りです。それらの記号化されたキャラクターを、出演者たちは躊躇することなくそのまんま演じて行きます。もうこの段階で先の展開が読めると思いませんか?その通り、Akaashは最初はRaniに惹きつけられるのですが、最後にはPriyaとくっつくのです。ですから、Priyaの婚約者のVikramには彼女に捨てられるに十分な理由があるわけです。そう、彼こそが実は悪者なのですね。そして、オカマの親友のSweetieは死ぬ運命にあります、もちろんVikramに殺されて。ちょっと話は跳びますが、“Sunset Boulevard”の中でJoe GillisがBetty Shafferに映画のシナリオの書き方を手ほどきするナンバーの中で、「ヒーローの親友以外は誰も殺してはならない」という原則が出てきますが、ここでもそのハリウッドの「お約束」パターンがでてくるわけです。
こんな風に1幕も終わらない段階でネタばれしてしまっているというのに、それで興味を失うかというとそうでもない。それどころか、ヒーローのAkaashがスラム街の人たちに背を向けるシーンでは、本気でむかついたし、2幕で悪役の魔の手がヒロインに迫るところなどでは、はらはらまでしてしまいました。この感覚、私はジェットコースターに乗ったときのスリルと同じものなんじゃないかと思っています。ジェットコースターに乗っているときの我々は、安全ベルトに守られているのがわかっている状態で、安全だとわかっているからこそ安心してハラハラできるのだと思いませんか?この作品や、私は観たこと無いけどBollywood映画、さらには日本の時代劇が人を惹きつけるのは、予定調和の結末が保証された中で、主体的に考えることを積極的に放棄してストーリーの展開されるがままに自分の思いを任せることができるという、一種の快感なのだろうと思います。
ジェットコースターが派手な作りの方が楽しいように、こういう作品は外連味たっぷりな方がよろしい。聞くところによるとBollywood映画の特徴もどうやらその外連の部分にあるらしいです。この作品では派手なセットと大人数による群舞がそれを支えています。Bollywood映画の撮影のシーンを模したナンバーである“Shakalaka Baby”では、32本もの噴水から水が噴き出すなかでAkaash、Rani、そして大勢のダンサーたちがずぶ濡れになりながら踊りまくるという、とてつもないスペクタクルを見せてくれます。「なんで噴水が出てこなきゃなんないの?」という質問はご法度。濡れたヒーローとヒロインはセクシーじゃないですか、それ以外に何の理由がいるんでしょう?ちなみにWest End版では噴水の数は13本だったそうです。派手なら派手なほどいいというのを製作者ははっきりと意識しているのでしょう。
さて、ではわかりきった結末へと向かうべく2幕を簡単に紹介させてください。AkaashとRaniの映画は大当たりし、Bollywood映画のアカデミー賞に相当する賞にノミネートされます。ですが、スラム街のほうは救われること無く取り壊されようとしています。それもそのはず、開発反対のリーダーであるVikram自身が開発業者の社長であったからです。Vikramの裏の顔に気づいた親友のSweetieはVikramのもとへと乗り込んでいきますが、Vikramに射殺されてしまいます。(質問:なんでVikramは手先がいるのに自らSweetieを殺めるなんていうやばいまねをしたのか? 答え:悪役だから)しかし、そのことはAkaashの知るところとなり(その経緯は省略)彼は映画スターとしての地位でもって今まさに取り壊されんとするスラム街を間一髪で救います。(質問:なぜ間一髪になるまで救えないのか? 答え:ヒーローだから)そしてVikramとPriyaとの結婚を阻止すべく式場へ乗り込みます。正体をばらされたVikramは懐から拳銃を取り出しPriyaを人質に取ってのがれようとします。(質問:なぜ結婚式の当日に新郎が懐に拳銃を忍ばせているのか? 答え:悪役だから)そして、自分の悪事を聞かれもしないのにべらべらと得意げに語ります。(質問:省略 答え:省略)ここからちょっとお約束パターンと離れるのが、ヒーローのAkaashがPriyaを救うのではなく、Priya自らがVikramをとっちめてしまうと言うところです。Bollywood式の殺陣回りというのを初めて見ましたが、やはり歌舞伎の殺陣回りに近い様式化されたもののようですね。West End版ではその殺陣回りのシーンをもっとたっぷりやったとのこと。それ観たかったなあ。ともあれ最後はAkaashとPriyaがいっしょになってめでたしめでたしというところです。
音楽は先に書いたようにA.R. Rahmanで、ALWは彼の音楽に惚れこんで、プロデュースを決意したとのことですが、B’way版の舞台を見る以前、WE版のキャストアルバムを聞いた時には、それほど魅力的だとは思いませんでした。理由としては彼の音楽がダンスミュージックの流れを汲む、ビートの効いたというか効き過ぎた、繰り返しの多いメロディだからで、確かにALWのメロディよろしく頭について離れないのですが、飽きが来るのも早かったです。キャストアルバム、買って何回か聞いてから、観るまでのあいだしばらく棚の肥やしになってました。もうひとつは、WEのキャストアルバムのオーケストラがかなりの小規模で、そのために電子楽器に頼った音作りで、音が薄く感じられたこともあります。これはB’wayのはるかに大規模なオーケストラでは解決されていました。音はよかったです。出演者は…はっきりいってわからん!だって、全員が始めてみる顔ぶれの上に、記号化されたキャラをそのまま演じていたわけで、いい役者なのかどうかなんてわかるわけない。
とまあ、今回この作品を観ていくにあたって、私は時代劇なんぞを引き合いに出して記号化された世界について語ってみたわけですが、この辺が、Bollywood映画を全く知らないままにこの作品にアプローチした私の限界でしょうね。正直、もし私がBollywood映画の詳しかったら、もっと正面からこの作品を語れたことでしょう。B’way版ではWE版よりもBollywood映画をベースにした部分を抑えたとのことですが、それでも、もしかしたら私には“Bombay Dreams”の本当の面白さはわかってないのかもしれません。
そんな記号化・様式化された、最初から嘘であるとわかっている世界を、そのまま受け入れてしまうのは、勧善懲悪というパターンが本質的に人間の心に触れるものがあるからでしょうね。私はものを斜に構えてみるほうで、芝居でも、勧善懲悪なんていう世界に、むしろ疑問を呈するような作品に納得するほうですし、ここでもその手の作品を支持してきました。(最近では“Wicked”がそうです。)そんな私でも、心の底のどこかには、「俺が正義だ文句はあるか」といってやりたい欲求が少しはあることは認めざるを得ません。でも、そんな皮肉屋の私ですからちょっとやそっとのことでは勧善懲悪ストーリーにのめり込まされはしません。じゃあどうしたらいいのでしょうか?現実味を加える?いえいえ、逆です。どうせ信じがたい世界なのだから、ここは製作者には開き直って嘘の世界丸出しの物語を展開していただきたい。余計な要素はすべて取り払って、極端なまでにすべてを記号化していただきたい。ヒーローはひたすらカッコよく、悪役は自分の悪さに自己陶酔していただきたい。どうせ嘘なんだから、派手なほうがいい。セットはデカくてケバいほうがいい。そうだ、日ごろ「物語の途中で突然歌って踊りだすのがリアルでない」といわれているミュージカルの形式も、ここでなら無理なくはまるでしょう。リアルな世界を求めるぐらいなら最初からこういう作品は観ないのだから。
やっとミュージカルの話に入れました。さて、このような記号化された作品を映画という形で大量に送り出してきたのが、製作本数では世界最大の映画大国であるインドの“Bollywood Movie”コミュニティーです。ちなみにBollywoodというのはBombay Hollywoodという意味の造語です。このBollywood映画の世界をそのまま舞台に移植するという試みを行ったのが、ただいまB’wayにて続演中の“Bombay Dreams”です。Andrew Lloyd Webberの名前が表に出てきているので彼の作曲だと思い込んでいる方が多いようですが、彼はプロデュースをしただけです。代わりにタイトルの上にクレジットされているのが作曲担当でBollywood映画音楽を数多く手がけてきたA. R. Rahmanです。作詞がALWとの“Sunset Boulevard”、“Song and Dance”などのコンビで知られるDon Black。脚本はオリジナルのWest End版を書いたMeera Syalを引き継ぐ形で、大幅に改編した、“The Producers”、“Hairspray”の最近の2大ヒットミュージカルを手がけたThomas Meehanが担当しています。とまあ、製作チームの名前から挙げ始めたのは、この作品の出演者の多くが普段大きな役を得る機会がないインド系の俳優達で、名前を挙げても私を含めた誰にも分からないからということがあります。主演のManu Narayan、Anisha Nagarajanといったところは、B’wayのクレジットは今までのところ無いようです。
さて、例によってネタバレつきの粗筋など紹介しながら話を進めようかと思ったのですが、見てから書き始めるまで間が開きすぎて筋を忘れてしまいました!そんなわけで、確かこんな話だったんじゃないかなぁ~という感じで簡単にお話させてください。どのみち単純な話なので複雑にやれといわれても出来ないのですが、間違ってたらまあ笑って許してやってください。舞台となるのはボンベイのスラム街です。ここには貧しいながらも心優しい下層階級の人達が共同体を作って、それなりに幸せに暮らしています。その中の一人の若者で、観光客相手のガイドであるAkaash(Narayan)はいつかBollywood映画のスターになりたいと夢見ています。その平和なスラム街には開発業者による、立ち退き、取り壊しの危機が迫っているようです。そこへ訪れたのが有名なBollywood映画の監督の娘であるPriya(Nagarajan)です。彼女は父親のアシスタントを経た後、自分の映画を、しかもBollywoodの主流である華やかな映画ではなく、リアルなストーリーをインディ系の作品として作る事を試みています。そのモチーフとして選んだのが自らの婚約者でスラム街の救済プロジェクトを進めているVikram(Deep Katdare)です。Vikramと共に立ち上がったAkaashは、そのデモンストレーションを行うべく、Priyaの手引きで彼女の父親Madan(Marvin L. Ishmael)がプロデュースするミス・インディアをハイジャックして、そこでAkaashによる訴えかけを行います。その試み自体はAkaashが調子に乗りすぎて失敗してしまうのですが、そこに居合わせたBollywood映画の大女優であるRani(Ayesha Dharker)が見初めて、次の映画の相手役にと抜擢します。監督のMadanは賎民出身の若者を映画の主役になどとんでもないと渋りますが、彼以外とはは出演しないとRaniに駄々をこねられ止む無く納得、Akaashに自分の出自を隠すように厳命した上で承諾します。演技などしたことの無いAkaashは苦労をしますが、Priyaによる誘惑シーンの演技指導などもあって映画は大成功、Akasshはスターへの階段をまっしぐらに突き進みます。(ついでにPriyaは演技が本気になって婚約者がいる身でありながらAkaashに惚れてしまいます。)でもその過程で自分の生まれた場所である、スラム街とそこで一緒に育った、オカマのSweetie(Sriram Ganesan)らの友達との関係を断ち切ってしまいます。カメラの前で自分を育ててくれた祖母のShanti(Madhur Jeffrey)までおも他人扱いするAkaashにスラム街の人たちは、Akaashは別の人間になったと絶望します。
この1幕の粗筋を見ただけでも、この作品には日本の時代劇に見られるような「お約束」の設定がてんこ盛りであるのがお分かりいただけるでしょうか?例えば、スラム街で仲良く楽しく暮らす貧民たち、という部分、スラム街を貧乏長屋に置き換えただけでもう、日本の時代劇の設定と変わらないでしょ。また、主人公が夢見る若者で、ちょっと向こう見ずなところなんかもありがちなパターンです。また、スター女優のRaniは我がままでお高く留まっており、いいとこのお嬢様のPriyaはとても控えめで賢いというのも、なんとなくお決まり通りです。それらの記号化されたキャラクターを、出演者たちは躊躇することなくそのまんま演じて行きます。もうこの段階で先の展開が読めると思いませんか?その通り、Akaashは最初はRaniに惹きつけられるのですが、最後にはPriyaとくっつくのです。ですから、Priyaの婚約者のVikramには彼女に捨てられるに十分な理由があるわけです。そう、彼こそが実は悪者なのですね。そして、オカマの親友のSweetieは死ぬ運命にあります、もちろんVikramに殺されて。ちょっと話は跳びますが、“Sunset Boulevard”の中でJoe GillisがBetty Shafferに映画のシナリオの書き方を手ほどきするナンバーの中で、「ヒーローの親友以外は誰も殺してはならない」という原則が出てきますが、ここでもそのハリウッドの「お約束」パターンがでてくるわけです。
こんな風に1幕も終わらない段階でネタばれしてしまっているというのに、それで興味を失うかというとそうでもない。それどころか、ヒーローのAkaashがスラム街の人たちに背を向けるシーンでは、本気でむかついたし、2幕で悪役の魔の手がヒロインに迫るところなどでは、はらはらまでしてしまいました。この感覚、私はジェットコースターに乗ったときのスリルと同じものなんじゃないかと思っています。ジェットコースターに乗っているときの我々は、安全ベルトに守られているのがわかっている状態で、安全だとわかっているからこそ安心してハラハラできるのだと思いませんか?この作品や、私は観たこと無いけどBollywood映画、さらには日本の時代劇が人を惹きつけるのは、予定調和の結末が保証された中で、主体的に考えることを積極的に放棄してストーリーの展開されるがままに自分の思いを任せることができるという、一種の快感なのだろうと思います。
ジェットコースターが派手な作りの方が楽しいように、こういう作品は外連味たっぷりな方がよろしい。聞くところによるとBollywood映画の特徴もどうやらその外連の部分にあるらしいです。この作品では派手なセットと大人数による群舞がそれを支えています。Bollywood映画の撮影のシーンを模したナンバーである“Shakalaka Baby”では、32本もの噴水から水が噴き出すなかでAkaash、Rani、そして大勢のダンサーたちがずぶ濡れになりながら踊りまくるという、とてつもないスペクタクルを見せてくれます。「なんで噴水が出てこなきゃなんないの?」という質問はご法度。濡れたヒーローとヒロインはセクシーじゃないですか、それ以外に何の理由がいるんでしょう?ちなみにWest End版では噴水の数は13本だったそうです。派手なら派手なほどいいというのを製作者ははっきりと意識しているのでしょう。
さて、ではわかりきった結末へと向かうべく2幕を簡単に紹介させてください。AkaashとRaniの映画は大当たりし、Bollywood映画のアカデミー賞に相当する賞にノミネートされます。ですが、スラム街のほうは救われること無く取り壊されようとしています。それもそのはず、開発反対のリーダーであるVikram自身が開発業者の社長であったからです。Vikramの裏の顔に気づいた親友のSweetieはVikramのもとへと乗り込んでいきますが、Vikramに射殺されてしまいます。(質問:なんでVikramは手先がいるのに自らSweetieを殺めるなんていうやばいまねをしたのか? 答え:悪役だから)しかし、そのことはAkaashの知るところとなり(その経緯は省略)彼は映画スターとしての地位でもって今まさに取り壊されんとするスラム街を間一髪で救います。(質問:なぜ間一髪になるまで救えないのか? 答え:ヒーローだから)そしてVikramとPriyaとの結婚を阻止すべく式場へ乗り込みます。正体をばらされたVikramは懐から拳銃を取り出しPriyaを人質に取ってのがれようとします。(質問:なぜ結婚式の当日に新郎が懐に拳銃を忍ばせているのか? 答え:悪役だから)そして、自分の悪事を聞かれもしないのにべらべらと得意げに語ります。(質問:省略 答え:省略)ここからちょっとお約束パターンと離れるのが、ヒーローのAkaashがPriyaを救うのではなく、Priya自らがVikramをとっちめてしまうと言うところです。Bollywood式の殺陣回りというのを初めて見ましたが、やはり歌舞伎の殺陣回りに近い様式化されたもののようですね。West End版ではその殺陣回りのシーンをもっとたっぷりやったとのこと。それ観たかったなあ。ともあれ最後はAkaashとPriyaがいっしょになってめでたしめでたしというところです。
音楽は先に書いたようにA.R. Rahmanで、ALWは彼の音楽に惚れこんで、プロデュースを決意したとのことですが、B’way版の舞台を見る以前、WE版のキャストアルバムを聞いた時には、それほど魅力的だとは思いませんでした。理由としては彼の音楽がダンスミュージックの流れを汲む、ビートの効いたというか効き過ぎた、繰り返しの多いメロディだからで、確かにALWのメロディよろしく頭について離れないのですが、飽きが来るのも早かったです。キャストアルバム、買って何回か聞いてから、観るまでのあいだしばらく棚の肥やしになってました。もうひとつは、WEのキャストアルバムのオーケストラがかなりの小規模で、そのために電子楽器に頼った音作りで、音が薄く感じられたこともあります。これはB’wayのはるかに大規模なオーケストラでは解決されていました。音はよかったです。出演者は…はっきりいってわからん!だって、全員が始めてみる顔ぶれの上に、記号化されたキャラをそのまま演じていたわけで、いい役者なのかどうかなんてわかるわけない。
とまあ、今回この作品を観ていくにあたって、私は時代劇なんぞを引き合いに出して記号化された世界について語ってみたわけですが、この辺が、Bollywood映画を全く知らないままにこの作品にアプローチした私の限界でしょうね。正直、もし私がBollywood映画の詳しかったら、もっと正面からこの作品を語れたことでしょう。B’way版ではWE版よりもBollywood映画をベースにした部分を抑えたとのことですが、それでも、もしかしたら私には“Bombay Dreams”の本当の面白さはわかってないのかもしれません。
by sabrekitten
| 2004-06-20 00:00
| (Fake) Reviews