2003年 11月 29日
「小銭の行方と新しい時代」: "Caroline, or Change"
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NYでミュージカルを見続けていると、「面白い」作品、「いい」作品に出会うことは別に珍しくもなんともありません。不作といわれている今シーズンでも、今のところ“Avenue Q”や“Wicked”などの素晴らしい作品が出てきています。とはいうものの、観ていて「凄い」と思う作品や、「背筋がゾクゾクする」ような作品というものにはB’way、Off B’wayを通じてなかなか出会うことはありません。私は今日、今シーズン初めてそういう作品を観ることが出来ました。(“Avenue Q”は凄い作品だったけれど、Off B’wayで観たのは昨シーズン。)この日曜にOffのNew York Public Theaterで正式にオープンする“Caroline, or Change”は、作品の持つ意図、それを見せるためのコンセプト、それを舞台上で具現する演出、さらにはそれを演じる役者達のすべてが見事に調和して、こいつはすげえや、とゾクゾクさせられるような舞台に仕上がっています。
背景となっているのは1963年の、南部中の南部であるルイジアナ。時はまさに公民権運動が盛り上がらんとする直前です。主人公のCaroline Thibodeaux(Tonya Pinkins)は中年の黒人女で、離婚した夫との間には、4人(劇中には3人しか出てきません。あとのひとりがどうなったのか、聞き取れませんでした、失礼。)の子供がいて、ユダヤ人のGellman家でメイドとして働いています。Carolineは極めて古い考え方の持ち主で、毎日同じように一生懸命働き続けるような単調にして報われない、貧しい生活こそ、神様の意に沿うことと信じています。また新しいものや変化は、基本的には嫌いで、家にはテレビも置こうとはしません。そんな彼女が、60年代の激動の時代が始まろうとする中で、その変化に戸惑い苦悩する姿が、物語の中心となっています。
Carolineを取り巻くのは、古い時代と新しい時代の価値観を代表する様々な人たちです。Gellman家の9歳の息子のNoah(Harrison Chad)は母親を癌で亡くし、Carolineとは地下の洗濯部屋で無駄話をし、ついでにこっそりタバコを吸わせてもらうという、ちょっと奇妙な友達同士です。Noahの父親のStuart(David Costabile)は(極めて信仰心の強い文化の当時の南部にあって)無神論を唱えてみたりして新しい時代を感じてはいるものの、自分で積極的に何かをすることはなく、世間の出来事を斜に構えて見ながら、妻が生きていた日々の思い出から抜け出せずに暮らしています。彼の後妻であるRose(Veanne Cox)は(リベラルな土地柄の)ニューヨークの出身で、南部の保守性になじむことが出来ません。Carolineに対しては、対等に接しようとするのですが、逆に保守的な彼女に距離を取られてしまいます。また、Noahが自分になつかない事にも苦しんでいます。Carolineの一番上の娘であるEmmie(Anika Noni Rose)はMartin Luther King牧師の唱える非暴力的公民権運動に傾倒して、世の中を変えるべきと主張し、母親と衝突します。それらのキャラに加えて、伝統的ユダヤ人で黒人の公民権運動を恐れを持って見ているNoahの祖父母でありStuartの両親(Alice PlaytenとReathel Bean)、NYのリベラル派でユダヤ教の祝日であるHanukkahにGellman家を訪れて、非暴力主義は手ぬるい革命が必要と過激に唱えるRoseの父親のMr. Stopnick(Larry Keith)などの人物が絡み合います。
この作品のテーマとなっているのは、社会の変動に直面した人々は、それに適応して自分自身の考えを変えることが出来るのかという問題です。Carolineは、新しい時代の考えを受け入れて自分の考えを変える(Change)ことが出来ずに苦悩するのですが、その直接の要因となるのは、Kennedy大統領の暗殺でもなく、King牧師でもなく、小銭(Change)です。タイトルの“Caroline, or Change”の“Change”はこの自分を変えるという意味と小銭の意味が掛けられているのです。Noahにはズポンのポケットに小銭を入れ忘れたままにする癖があって、いつもそれを発見するのはそのズボンを洗濯するCarolineです。継母のRoseは、Noahの悪い癖を直すための教訓とするために、見つけた小銭はチップ代わりに取って置くようにCarolineに言います。しかしながらRoseのこの言葉の裏には、リベラルな彼女が、貧しい生活を送るCarolineになんとか施しをしようという意図があります。でも、信心深いCarolineは人のものを自分のものにするなんてとんでもないと拒絶し、それを洗濯機の上の漂白剤のカップにためておきますが、その小銭でも子供達に何かを買ってやれることは確かで、カップに小銭を入れる瞬間は彼女にとって葛藤の時のようです。それを知っているNoahは、Carolineを試すかのようにわざと25セント玉をポケットに残します。言葉にしてしまえば、たかが小銭の問題ですが、この小銭を受け取るという行為には、新しい時代への変化を受け入れるという意味が集約されています。信仰に反して自分の欲求に従って生きるという意味合い、貧しい生活を当たり前と思わず豊かになろうとするという意味合い、更には、Roseからの施しを受け入れることで、黒人と白人やユダヤ人との隔離を否定し、Carolineを同じ世界の人間と見ようとするRoseのリベラルな考えを受け入れるという意味合いなどです。
この舞台では台詞は最小限で、ほとんどはオペラよろしくレシターブで展開します。そこで面白いのは、洗濯機、ラジオ、乾燥機、月、バスといった無生物たちがキャラクターとして登場し、歌っていることです。これらのキャラの役割はナレーターだったり、人間のキャラに、時代がどの様に変化しているかを対話を通じて語り掛けたりすることだったりします。洗濯機はCarolineの単調な日常を歌い、月は自らの満ち欠けのようにゆっくりと変化していく世の中を象徴的に語ります。またCarolineの子供達は月と語り合うことで時代の移り変わりを知るのです。洗濯機がキャラだというのでとんでもない被り物がでてくるのではと想像なさった方、ご心配なく。出演者は普通の衣装で出てきます。例えば、洗濯機役(Capathia Jenkins)は、セットの洗濯機のすぐそばで、ゴスペル歌手風の衣装で歌いますし、乾燥機役(Chuck Cooper)はJames Brown風の衣装で出てきます。ラジオの役(Tracy Nicole Chapman、Marva Hicks、Ramona Keller)はそこから流れる音楽を歌う歌手(ダイアナ・ロスとシュープリームス風のトリオ)のような衣装といった具合。
この人間と無生物のキャラクターが、時代の変化と心の動きを対話のように歌で交わしつつ、物語を進行していくというコンセプト、一歩間違えれば童話かファンタジー、あるいはコメディになりかねないと思いますが、全く自然なものとして受け入れることができました。それは良く出来た脚本とスコア、そして演出の賜物でしょう。脚本と作詞はTony Kushner。“Angels in America”などの社会性の強い作品が多い人ですが、本格的なミュージカルはこれが初めてのようです。歌詞は特に詩的でも複雑でもないですが、簡潔で分かりやすいものでした(私でもほぼ全部わかった。)が、別に紋切り型でも軽薄でもないという、絶妙なものだったと思います。このような作品が出来るなら、Kushnerにはもっとミュージカルを書いて欲しいですね。そして、作曲のJeanine Tesori。正直言って、この作品で私は彼女の様々なスタイルを使いこなす多才さに敬服してしまいました。曲調は黒人音楽のオンパレードで、ソウル、ゴスペル、モータウン風(60年代の黒人ポップ)などなんでもありです。しかも同じナンバーの中でも、歌い手の感情の動きに合わせて曲調が次々に変わったりします。それに加えて、曲の意味合いが、曲調とシンクロしたりもします。例えば、Noahの祖父母が、伝統的なユダヤ人の価値観に基づいて、黒人公民権運動への恐れを歌うナンバーでは、ユダヤ民俗音楽の調子が取り入れられたりといった具合。これらの多様な曲調をその場面、キャラクターの感情に合わせて使い分けられるのは並みの才能じゃないと思います。彼女の作品で日本のみなさんに一番馴染みが深いのは“Thoroughly Modern Mille”でしょうが、この人にはOff B’wayのPlay Wright Horizonsで公演され評判となった(やはり60年代前半の南部を扱った)“Violet”という作品があり、“Caroline, or Change”のスコアはそちらに近いように思いました。でも、今回の作品は、表現される内容が、曲調と絶妙にマッチしているという意味で、彼女の最高傑作だと思います。
そして、演出のGeorge C. Wolfe。以前ここで私はこの人を、野心的な試みで成功も失敗も多い人と評しました。今回は彼はやってくれましたね。世の中の移り変わりとそれを生きる人々の心の動きというテーマを、先ほど述べた、人間と無生物が入り乱れての対話を通じての物語の展開というコンセプトを通じて明確に描ききっていました。Wolfeが昨シーズン演出したミュージカルの“Radiant Baby”で、彼は80年代という時代とそれを生きた人々との関わりを描くことに挑戦して失敗していましたが、黒人である彼にとって公民権運動の時代である60年代は、やはり特別な思いがあるのではないでしょうか?観ているこちらに彼の意図がストレートに伝わってくる、冴えた演出でした。
出演者はみんなトップレベルだったと思います。Pinkinsは、古い考えを捨てられないCarolineというキャラクターの心の葛藤を、大げさでなく静かに演じています。Noah役のChadは声の感じがどこかで聴いたことあるなと思ったら、“Les Miz”の子役をやったことがあるとのこと。ああ、バリケードの中を走り回る子供の声でしたか。Rose役のCoxは、1995年の“Company”でAmyを演じていたのを観たことがあります。彼女の歌う“Getting Marry Today”を聴いてSondheim音楽にハマるようになった私としては、久々にCoxのミュージカルを見られたのは嬉しかった。
ストーリーがどの様に終わるのかが気になる方のために、ネタバレになる、話の展開を書いておきます。登場人物達の異なる価値観は、ユダヤ教の祝日であるHanukkahの晩餐の席で一気に衝突します。NYからやってきたRoseの父のStopmickは黒人達が暴力革命を起こすべきと説きます。それに大して、非暴力主義を信奉するEmmieとの間で議論になります。使用人の一家の一人である娘が、雇い主の客と意見を戦わせるという事態も、娘の唱える変革の必要性も、どちらも受け入れられないCarolineは娘に平手打ちをくらわせてしまいます。自己嫌悪に陥るCoroline。そして、その彼女の小銭をめぐる葛藤にもついに決定的な瞬間が訪れます。Stopmickから20ドルという当時としては子供には不相応な大金を与えられたNoahは今度は意図的にではなく、本当にうっかりポケットの中にそれを入れたままにしてしまいます。それを見つけたCarolineはついに葛藤に耐え切れず、それを(Roseが認めたとおり)自分のものとすること、つまり自分の今までの考え方を物欲に負けるという形で変えていくことを決意します。自分のとんでもない失敗に気づいたNoahはCarolineに金を返してくれと懇願しますが、これで自分の子供たちを歯医者に通わせるのだといい、拒絶するCaroline。怒ったNoahは彼女に、それまで口にせずにいた、絶対に言ってはならなかったこと、黒人達が他の人からいかに恐れ、憎まれているかということを、辛辣な言葉で投げかけます。反射的にCarolineも、ユダヤ人が彼女の信ずるキリスト教では地獄におちるべき存在となっているのだと言い返します。2人の間に存在した微妙な友情は、ここで完全に断ち切れてしまいます。Carolineに決別の言葉を吐き捨てて立ち去るNoah。そしてCarolineは20ドルを漂白剤のカップに投げ込みGellman家を出て、そのまま翌日もその次の日もGellman家には現れません。
最後にはCarolineは周りの人の説得の言葉を受け入れてGellman家に再びメイドとして勤めるようになります。どうやら、彼女も少しずつではあるものの時代の変化を受け入れつつあるようです。NoahもCarolineが戻ってきてくれたことを嬉しくは思うものの、彼女と言葉を交わすまでにはもう少し時間がかかりそうです。そんな彼もRoseを新しい母親として受け入れつつあるようだし、Stuartは新しい生活に積極的に向かっていこうとしているようです。時代は急速に変わりつつありますが、人というのはそう急には変われないもの。ゆっくりと月が満ちかけるように変わっていくのですね。
ここまで書いたものを読み返してみて、凄い舞台だと言っておきながら、その凄さが私の筆力では全然伝わっていないことに気づき愕然としています。かくなる上は、皆さんにこの舞台を観ていただくしかないでしょうなぁ。でも、この公演NY Public Theaterのプロダクションで、限定公演なのですよ。困ったもんだ。ただ、すでに前評判が立っていて、劇場を移しての続演も期待してよさそうです。もし、それが実現したときにはぜひぜひご覧になって下さい。ミュージカルという形式が、世の中の移り変わり、そしてそこを生きる人々の心の中の移り変わりをどれだけ鮮やかに描くことができるのかということを端的に示した、素晴らしい舞台ですので。ミュージカルの可能性って、本当に広く、かつ深いものなんですね。また、こればかりは日本で翻訳上演するのは無理でしょうし。
背景となっているのは1963年の、南部中の南部であるルイジアナ。時はまさに公民権運動が盛り上がらんとする直前です。主人公のCaroline Thibodeaux(Tonya Pinkins)は中年の黒人女で、離婚した夫との間には、4人(劇中には3人しか出てきません。あとのひとりがどうなったのか、聞き取れませんでした、失礼。)の子供がいて、ユダヤ人のGellman家でメイドとして働いています。Carolineは極めて古い考え方の持ち主で、毎日同じように一生懸命働き続けるような単調にして報われない、貧しい生活こそ、神様の意に沿うことと信じています。また新しいものや変化は、基本的には嫌いで、家にはテレビも置こうとはしません。そんな彼女が、60年代の激動の時代が始まろうとする中で、その変化に戸惑い苦悩する姿が、物語の中心となっています。
Carolineを取り巻くのは、古い時代と新しい時代の価値観を代表する様々な人たちです。Gellman家の9歳の息子のNoah(Harrison Chad)は母親を癌で亡くし、Carolineとは地下の洗濯部屋で無駄話をし、ついでにこっそりタバコを吸わせてもらうという、ちょっと奇妙な友達同士です。Noahの父親のStuart(David Costabile)は(極めて信仰心の強い文化の当時の南部にあって)無神論を唱えてみたりして新しい時代を感じてはいるものの、自分で積極的に何かをすることはなく、世間の出来事を斜に構えて見ながら、妻が生きていた日々の思い出から抜け出せずに暮らしています。彼の後妻であるRose(Veanne Cox)は(リベラルな土地柄の)ニューヨークの出身で、南部の保守性になじむことが出来ません。Carolineに対しては、対等に接しようとするのですが、逆に保守的な彼女に距離を取られてしまいます。また、Noahが自分になつかない事にも苦しんでいます。Carolineの一番上の娘であるEmmie(Anika Noni Rose)はMartin Luther King牧師の唱える非暴力的公民権運動に傾倒して、世の中を変えるべきと主張し、母親と衝突します。それらのキャラに加えて、伝統的ユダヤ人で黒人の公民権運動を恐れを持って見ているNoahの祖父母でありStuartの両親(Alice PlaytenとReathel Bean)、NYのリベラル派でユダヤ教の祝日であるHanukkahにGellman家を訪れて、非暴力主義は手ぬるい革命が必要と過激に唱えるRoseの父親のMr. Stopnick(Larry Keith)などの人物が絡み合います。
この作品のテーマとなっているのは、社会の変動に直面した人々は、それに適応して自分自身の考えを変えることが出来るのかという問題です。Carolineは、新しい時代の考えを受け入れて自分の考えを変える(Change)ことが出来ずに苦悩するのですが、その直接の要因となるのは、Kennedy大統領の暗殺でもなく、King牧師でもなく、小銭(Change)です。タイトルの“Caroline, or Change”の“Change”はこの自分を変えるという意味と小銭の意味が掛けられているのです。Noahにはズポンのポケットに小銭を入れ忘れたままにする癖があって、いつもそれを発見するのはそのズボンを洗濯するCarolineです。継母のRoseは、Noahの悪い癖を直すための教訓とするために、見つけた小銭はチップ代わりに取って置くようにCarolineに言います。しかしながらRoseのこの言葉の裏には、リベラルな彼女が、貧しい生活を送るCarolineになんとか施しをしようという意図があります。でも、信心深いCarolineは人のものを自分のものにするなんてとんでもないと拒絶し、それを洗濯機の上の漂白剤のカップにためておきますが、その小銭でも子供達に何かを買ってやれることは確かで、カップに小銭を入れる瞬間は彼女にとって葛藤の時のようです。それを知っているNoahは、Carolineを試すかのようにわざと25セント玉をポケットに残します。言葉にしてしまえば、たかが小銭の問題ですが、この小銭を受け取るという行為には、新しい時代への変化を受け入れるという意味が集約されています。信仰に反して自分の欲求に従って生きるという意味合い、貧しい生活を当たり前と思わず豊かになろうとするという意味合い、更には、Roseからの施しを受け入れることで、黒人と白人やユダヤ人との隔離を否定し、Carolineを同じ世界の人間と見ようとするRoseのリベラルな考えを受け入れるという意味合いなどです。
この舞台では台詞は最小限で、ほとんどはオペラよろしくレシターブで展開します。そこで面白いのは、洗濯機、ラジオ、乾燥機、月、バスといった無生物たちがキャラクターとして登場し、歌っていることです。これらのキャラの役割はナレーターだったり、人間のキャラに、時代がどの様に変化しているかを対話を通じて語り掛けたりすることだったりします。洗濯機はCarolineの単調な日常を歌い、月は自らの満ち欠けのようにゆっくりと変化していく世の中を象徴的に語ります。またCarolineの子供達は月と語り合うことで時代の移り変わりを知るのです。洗濯機がキャラだというのでとんでもない被り物がでてくるのではと想像なさった方、ご心配なく。出演者は普通の衣装で出てきます。例えば、洗濯機役(Capathia Jenkins)は、セットの洗濯機のすぐそばで、ゴスペル歌手風の衣装で歌いますし、乾燥機役(Chuck Cooper)はJames Brown風の衣装で出てきます。ラジオの役(Tracy Nicole Chapman、Marva Hicks、Ramona Keller)はそこから流れる音楽を歌う歌手(ダイアナ・ロスとシュープリームス風のトリオ)のような衣装といった具合。
この人間と無生物のキャラクターが、時代の変化と心の動きを対話のように歌で交わしつつ、物語を進行していくというコンセプト、一歩間違えれば童話かファンタジー、あるいはコメディになりかねないと思いますが、全く自然なものとして受け入れることができました。それは良く出来た脚本とスコア、そして演出の賜物でしょう。脚本と作詞はTony Kushner。“Angels in America”などの社会性の強い作品が多い人ですが、本格的なミュージカルはこれが初めてのようです。歌詞は特に詩的でも複雑でもないですが、簡潔で分かりやすいものでした(私でもほぼ全部わかった。)が、別に紋切り型でも軽薄でもないという、絶妙なものだったと思います。このような作品が出来るなら、Kushnerにはもっとミュージカルを書いて欲しいですね。そして、作曲のJeanine Tesori。正直言って、この作品で私は彼女の様々なスタイルを使いこなす多才さに敬服してしまいました。曲調は黒人音楽のオンパレードで、ソウル、ゴスペル、モータウン風(60年代の黒人ポップ)などなんでもありです。しかも同じナンバーの中でも、歌い手の感情の動きに合わせて曲調が次々に変わったりします。それに加えて、曲の意味合いが、曲調とシンクロしたりもします。例えば、Noahの祖父母が、伝統的なユダヤ人の価値観に基づいて、黒人公民権運動への恐れを歌うナンバーでは、ユダヤ民俗音楽の調子が取り入れられたりといった具合。これらの多様な曲調をその場面、キャラクターの感情に合わせて使い分けられるのは並みの才能じゃないと思います。彼女の作品で日本のみなさんに一番馴染みが深いのは“Thoroughly Modern Mille”でしょうが、この人にはOff B’wayのPlay Wright Horizonsで公演され評判となった(やはり60年代前半の南部を扱った)“Violet”という作品があり、“Caroline, or Change”のスコアはそちらに近いように思いました。でも、今回の作品は、表現される内容が、曲調と絶妙にマッチしているという意味で、彼女の最高傑作だと思います。
そして、演出のGeorge C. Wolfe。以前ここで私はこの人を、野心的な試みで成功も失敗も多い人と評しました。今回は彼はやってくれましたね。世の中の移り変わりとそれを生きる人々の心の動きというテーマを、先ほど述べた、人間と無生物が入り乱れての対話を通じての物語の展開というコンセプトを通じて明確に描ききっていました。Wolfeが昨シーズン演出したミュージカルの“Radiant Baby”で、彼は80年代という時代とそれを生きた人々との関わりを描くことに挑戦して失敗していましたが、黒人である彼にとって公民権運動の時代である60年代は、やはり特別な思いがあるのではないでしょうか?観ているこちらに彼の意図がストレートに伝わってくる、冴えた演出でした。
出演者はみんなトップレベルだったと思います。Pinkinsは、古い考えを捨てられないCarolineというキャラクターの心の葛藤を、大げさでなく静かに演じています。Noah役のChadは声の感じがどこかで聴いたことあるなと思ったら、“Les Miz”の子役をやったことがあるとのこと。ああ、バリケードの中を走り回る子供の声でしたか。Rose役のCoxは、1995年の“Company”でAmyを演じていたのを観たことがあります。彼女の歌う“Getting Marry Today”を聴いてSondheim音楽にハマるようになった私としては、久々にCoxのミュージカルを見られたのは嬉しかった。
ストーリーがどの様に終わるのかが気になる方のために、ネタバレになる、話の展開を書いておきます。登場人物達の異なる価値観は、ユダヤ教の祝日であるHanukkahの晩餐の席で一気に衝突します。NYからやってきたRoseの父のStopmickは黒人達が暴力革命を起こすべきと説きます。それに大して、非暴力主義を信奉するEmmieとの間で議論になります。使用人の一家の一人である娘が、雇い主の客と意見を戦わせるという事態も、娘の唱える変革の必要性も、どちらも受け入れられないCarolineは娘に平手打ちをくらわせてしまいます。自己嫌悪に陥るCoroline。そして、その彼女の小銭をめぐる葛藤にもついに決定的な瞬間が訪れます。Stopmickから20ドルという当時としては子供には不相応な大金を与えられたNoahは今度は意図的にではなく、本当にうっかりポケットの中にそれを入れたままにしてしまいます。それを見つけたCarolineはついに葛藤に耐え切れず、それを(Roseが認めたとおり)自分のものとすること、つまり自分の今までの考え方を物欲に負けるという形で変えていくことを決意します。自分のとんでもない失敗に気づいたNoahはCarolineに金を返してくれと懇願しますが、これで自分の子供たちを歯医者に通わせるのだといい、拒絶するCaroline。怒ったNoahは彼女に、それまで口にせずにいた、絶対に言ってはならなかったこと、黒人達が他の人からいかに恐れ、憎まれているかということを、辛辣な言葉で投げかけます。反射的にCarolineも、ユダヤ人が彼女の信ずるキリスト教では地獄におちるべき存在となっているのだと言い返します。2人の間に存在した微妙な友情は、ここで完全に断ち切れてしまいます。Carolineに決別の言葉を吐き捨てて立ち去るNoah。そしてCarolineは20ドルを漂白剤のカップに投げ込みGellman家を出て、そのまま翌日もその次の日もGellman家には現れません。
最後にはCarolineは周りの人の説得の言葉を受け入れてGellman家に再びメイドとして勤めるようになります。どうやら、彼女も少しずつではあるものの時代の変化を受け入れつつあるようです。NoahもCarolineが戻ってきてくれたことを嬉しくは思うものの、彼女と言葉を交わすまでにはもう少し時間がかかりそうです。そんな彼もRoseを新しい母親として受け入れつつあるようだし、Stuartは新しい生活に積極的に向かっていこうとしているようです。時代は急速に変わりつつありますが、人というのはそう急には変われないもの。ゆっくりと月が満ちかけるように変わっていくのですね。
ここまで書いたものを読み返してみて、凄い舞台だと言っておきながら、その凄さが私の筆力では全然伝わっていないことに気づき愕然としています。かくなる上は、皆さんにこの舞台を観ていただくしかないでしょうなぁ。でも、この公演NY Public Theaterのプロダクションで、限定公演なのですよ。困ったもんだ。ただ、すでに前評判が立っていて、劇場を移しての続演も期待してよさそうです。もし、それが実現したときにはぜひぜひご覧になって下さい。ミュージカルという形式が、世の中の移り変わり、そしてそこを生きる人々の心の中の移り変わりをどれだけ鮮やかに描くことができるのかということを端的に示した、素晴らしい舞台ですので。ミュージカルの可能性って、本当に広く、かつ深いものなんですね。また、こればかりは日本で翻訳上演するのは無理でしょうし。
by sabrekitten
| 2003-11-29 00:00
| (Fake) Reviews