2004年 11月 16日
「冥途で起こった奇妙な出来事」: "The Frogs"
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Lincoln Center Theater at the Vivian Beaumontで限定公演を行った“The Frogs”はこんな設定の説明の一言で始まります。
「時:現代、場所:古代ギリシャ」
そしてこれは、結果的にこの作品の内容を最も端的に伝える一言ともなります。今回のお話は何やらあちこちに跳びそうで、読者の皆さんを振り回すことになるんじゃないかと、やや不安なのですが、最後には必ずこの台詞に戻ってきます。ですから、辛抱してお付き合いいただけたらと思います。
ミュージカルの歴史を著した本の中で(ね、跳んでるでしょ)、恐らくや最もよく読まれているもののひとつがAlan Jay Lernerによる“The Musical Theatre: A Celebration”(邦訳:「ミュージカル物語:オッフェンバックから『キャッツ』まで」千葉文夫・星優子・梅木淳子訳、筑摩書房、1990年)ではないかと思いますが、この本は作者のこんな言葉で始まります。ちょっと長いけど引用してみます。
「石の観客席の時代から今日にいたるまで、人々が芝居を見てとくに何かを勉強したとは、どうも考えにくい。観客がさまざまな感情をそっくりそのまま体験し、笑いをくすぐられたかと思えば、今度は涙を誘われ、言葉の壮麗さに刺激され、心惑わされ、興奮状態に陥るということは確かにあるだろう。しかしながら、劇場を出る段になって、本当の意味で知的変化を遂げているなどということがありうるだろうか。決してないはずだ。
むしろ芝居が果たしうることはといえば、切符をもっている人々を楽しむ集団に変え、いったん幕が下りれば、座席のあいだを通って外に出て、我を忘れて束の間の休息を味わった後で、さっぱりした気分になって現実世界に舞い戻らせる、そんな役目なのである」(邦訳3p)。
これはミュージカルの歴史を綴った本の書き出しとしては意外な言葉です。しかもそれを書いたのがLernerであるならなおさらです。Lernerといえば不朽の名作“My Fair Lady”の脚本家であり、作詞を行った人なのです(作曲はFrederick Loewe)。その彼が芝居なんて一時の現実逃避のお楽しみと言い切ってしまうなんて…。でも、私は彼に賛成です。芝居というものは、観客がすでに持っている知識を優雅な言葉で表現しなおして新鮮味を与えたり、言葉で理解していることを舞台上で行われる視覚的・聴覚的な(疑似)体験として強化したりすることはあっても、人は芝居を観て考えが変わるというようなことはないのではないでしょうか。ミュージカルの中にはずいぶん社会性の強いメッセージを持ったものがあります。例えば“Ragtime”はアメリカの歴史の中の人種問題が話の大きな縦軸となっていますね。主人公の黒人ピアニストColehouseが、その人種ゆえに不当な扱いを受け、妻を失い、その復讐のためにテロ活動に参加し、最後には殺される、そんな姿を観てあなたは同情し、涙して、人種差別はよくないと思うかもしれません。でもそれはもともとあなたが人種差別はよくないと思っていたのであって、芝居が果たしたのは、それに(虚構とはいえ)具体的なイメージを与えて強化しただけです。賭けてもいいけど、もともと人種的偏見を持っていた人で“Ragtime”を観てそれを無くしたり弱めたりした人はいないと思う。観劇体験の本質というのは虚構世界の疑似体験によるカタルシスであって、人が現実世界にどう立ち向かうかという問題とは一線を画しているのだと思います。
さて、この“The Frogs”ですが(また跳びましたよ)、プロットはこんな感じです。世の中の荒廃を嘆く演劇とワインの神Dionysos(Nathan Lane)が人々を正しい行いに導くにはそれを芝居で表現するのが一番と考え、その書き手としてGeorge Bernard Shaw(Daniel Davis)を選びます。当然この世にはいないShawを蘇らせるべく、Dionysosは奴隷のXanthias(Roger Bart)を伴って黄泉の国へと向かいます。そこでShawとWilliam Shakespeare (Michael Siberry)の「文芸決闘」に立ち会うこととなり、最後にはShawの替わりにShakespeareをつれて現世に戻ることとなります。
(以下の話には“Lincoln Center Theater Review”のNo.38の“The Frogs”の特集号のいくつかの記事を参考にしています。)
脚本には3人がクレジットされています。もととなったのが古代ギリシャのアテネの劇作家Aristophanesが紀元前405年に作り上げた同名の喜劇。その時のDionysosの目的は、衰退した喜劇の世界を救うべく、黄泉の国にいって最近亡くなった偉大な喜劇作家を連れ帰って再び喜劇をかかせるというものでした。ただ、その過程で語られる台詞には全面に政治風刺が散りばめられていて、喜劇としての売りはそこにあったようです。これが作られた当時のアテネはペロポネソス戦争という長い戦争の最中で、市民達の間には世の中への不安と、為政者達への苛立ちが蔓延していたようで、政治風刺劇はそれらを笑いという形で発散させるのにぴったりだったようです。
その古代の喜劇をミュージカルとして1974年に作り変えたのが、Burt Shevelove(1982年没)です。彼にははそれ以前に、やはり古代劇をもとにして、“The Frogs”の作詞・作曲家であるStephen Sondheimと組んで(あと、Larry Gelbertも参加)作ったミュージカル、“A Funny Thing Happened on the Way to the Forum”という作品があります。ここでのDionysosの黄泉の国への旅は、荒廃した演劇の世界を救うべくShakespeareを連れて帰るというものに変更になっています。当時の演劇、特にミュージカルというのは、いわゆる黄金時代のミュージカルが衰退し始め、“Hair”、“Oh! Calcutta!”といったそれまでの作品とは全く違った傾向の作品が現れ始めており、ミュージカルはいったいどこへいくのだろうという期待と不安の意識が演劇に関わる人たちの間にあったようです。それらを背景として、Sheveloveは演劇界を皮肉るというやや内幕パロディ的な作品に仕上げたらしい。(政治的な風刺も入ったいたのかもしれませんが、1974年版の脚本を読んだことがないのでわかりません、ごめんなさい。)
1974年版は、イェール大学の学生によって大学のプールを利用した舞台で演じられた40分程の短い作品で、その時のコーラスにMeryl Streepなどの後に有名になる俳優が入っていたというので演劇マニアの間で語り草になっています。そういう特殊な作品なので、その後演じられることもなく、お蔵入り状態だったわけですが、スコアを書いたのがSondheimだったこともあり、これらの曲をすべて通して聞いてみたいという人は数多くいたのでしょう。それが彼の70歳の誕生記念コンサートで実現します。そこでDionyososを演じたのがNathan Laneです。(これが後にCDにもなります。)Laneは以前からこの作品のことを知っていて、“Forum”を作ったコンビの作品でありながら、普通の喜劇とはちょっと違った深い内容を持った作品と認識していたそうです。
そのLaneが2001年の9月11日のあの事件に出会うところから、この公演へのプロセスは始まります。多くのアメリカ人(アメリカ人だけでもないと思うが)と同じように、国内で大規模なテロが起こるという事態に世の中への不安を感じたLaneは、演劇の力によって何か世界を変えることに貢献できる方法はないかと思索し、そこで“The Frogs”のことを思い出します。戦争という時代背景のもとで、黄泉の国から偉大な劇作家を連れて帰って新たな喜劇を書かせることで人々の心を癒すという内容のAristophanesのオリジナルの脚本や、それをミュージカルとして脚色したSheveloveの作品にある種の理想主義を見出したLaneはこれを今演じることで同じような、理想主義的メッセージを伝えられるのではと考えました。そこで“The Frogs”を21世紀の現代に沿った内容に自ら書き直す決意を行います。かくしてDionyososの使命は演劇界を救うのではなく、荒廃した世の中を救うという壮大なものに変更になります。
そんなわけで、脚本にクレジットされているAristophanes、Shevelove、Laneのうち、今回のバージョンと公演の中心となるのはLaneであるといっていいでしょう。最初は彼が自ら脚本を書いて監督するつもりだったようですが、監督まで引き受けるのはあまりに仕事の負担が増えすぎるというので、その役割としてSusan Stroman(Laneの名声を不動のものとした“The Producers”の監督)に白羽の矢を立てますが、そこで彼女を動かすためにLane自身がDionyososを演じてもいいと提言し、彼女はそれを受け入れます。(そりゃそうだわな、Lane主演でSondheim作詞・作曲のミュージカルを監督できるという機会に食指が動かないわけはない。)ただそのためには40分程度の作品を独立したB’wayの作品として公演できるよう新たに曲を書き足す必要がありました。その協力をSondheimから得ることで現行版は完成するわけです。
ここまで辛抱して付き合ってくださった方それだけでもありがとう。延々と作品の成立背景を語るばかりで、作品の内容に少しも触れないので、苛立ってウィンドウを閉じてしまった方もいらっしゃるかもしれません。でも、この“The Frogs”を語るには、作品の成立のプロセスと、そこで作者達、特にその中心にいるLaneが何を考えていたかについて理解している必要があると私は思うのです。
さて、やっと作品そのものの話に入れるわけですが、お話しの縦軸となるのはすでに述べたように、DionyososとXianthiasの二人の黄泉の国への旅です。死者の世界へ行くだなんていやだと渋るXianthiasを無理やり説き伏せて、ついでに旅の大荷物を引きずらせながら、彼らの旅は始まります。途中でHerakles(Burke Moses)のところに立ち寄って、身を守るための棍棒を手に入れたりします。誰から身を守る必要があるのでしょうか?それは蛙です。そう、あの蛙です。
正直に告白しますが、この作品を観ている間、私はついに蛙がいったい何を意味しているのかわかりませんでした。蛙がDionyososの旅を邪魔しようとしているというのは分かったのですが、それ以上には深く考えてはいませんでした。このキャラがタイトルになっているぐらいできっと重要なのだろうと思ったにも関わらず。で、あとでLincoln Center Theater Reviewを読んで分かったのですが、蛙たちというのは、世の中を憂いそれを変えようとするDionyososの英雄的な行動に冷淡な視線を投げかけるアテネの市民達の象徴なのだそうです。そういわれてCDを聞き返してみると確かに蛙たちの歌は「何をそんなに張り切っているんだい、何をしようが世の中変わるわけないよ、今のままでいいじゃないか」という現状容認のメッセージを歌ったものです。こんな大事な部分を分かっていなかった私がこの作品について語る資格があるのかしらんと不安になったりもしますが、とにかく先に話を進めます。
三途の川にたどり着いたDionyososとXianthiasは船頭のCharon(John Byner)の渡し舟に乗って、途中蛙たちの妨害にもめげずに黄泉の国にたどり着き、そこの神であるPluto(Peter Bartlett)にあってShawを連れ出す許可を得て、彼を探しますがその過程で、死者の国の美女達に踊りなどで歓待を受けたりしてお楽しみの時間を過ごします。ようやくDionyososはShawを見つけますが、その彼はShakespeareと口論になり決闘を申し込んだところでした。Dionyososはとっさにその決闘を文芸対決として行う事を提案し、自らお題を出す審判となります。その過程でShakespeareが人間を表現する詩的表現に心をうたれたDionyososは当初の予定を変えてShakespeareを連れて帰ることにします。
とまあ、粗筋を極端に端折って書いてみましたが、この作品の肝となるのは、これらのストーリー展開の中に様々な形で織り込まれている政治風刺です。Sondheim自身もインタービューの中で、プロット自体には特に大きな意味はなくて、その中に織り込まれる風刺こそが重要なのだといってました。
…あれ?
でも…
なんか変じゃないかい?それってLaneが最初に言ってたことと微妙にずれてるぞ。LaneはDionyososが黄泉の国から作家を連れてきて世の中を変えようとする試みに一種の理想主義を見出しているようだし、蛙たちとの関係などの部分を見ると確かにそうした意図がプロットの中にあるように見えます。でも、作詞・作曲したSondheimはそのような部分には意味を見出していないようです。こうしたことから分かるように、この作品は必ずしも作者達の意図がすべて一枚岩となってひとつのコンセプトを訴えかけるために出来上がったものとは言いがたいようです。
では、もう1人の重要な製作チームのメンバーであるStromanはどう捉えていたでしょうか?彼女へのインタビューを読むと、StromanはLaneがこの作品を通じてやろうとしていたことは理解していたようです。でも、同じインタビューで彼女が製作過程について語っているのを読むと、どうやら彼女は自分で強いコンセプトを持って、それを舞台上で具現化していくというタイプの演出家ではないようです。むしろ、プロット、スコア、俳優など与えられた要素を素材として、それらの長所を取り入れつつ纏め上げるタイプと言えそうです。ですから、このLaneの思いも、彼がそれを舞台上で演じた以上のものとしては現れていなかったのではないでしょうか。
ここまで述べた後ならば、読者の皆さんは私がこの舞台をどのように捉えたかというのも理解していただけるのではないでしょうか。この“The Frogs”、確かによくまとまっているのですが、どうも何かが弱いのです。特にLaneが伝えようとしていたメッセージは私には伝わってきませんでした。どうやらその原因の1つはLaneがこの作品を通じて伝えようとしたメッセージが必ずしも他の製作チームの共鳴を得ていなかったのではないかと思うのです。もちろん、反対はしていなかったでしょう。でも、製作チームが一枚岩で無いと、ある作者の1人の意図が全面に出てきにくくなるだろうというのは想像に難くないと思います。
Laneがこの作品を通じて世の中の問題を演劇を通じて少しでもいい方向に持っていけるのではないかというメッセージがうまく伝わらなかった理由としては、すでに述べたように作者達の思いが必ずしも1つにまとまっていたとはいえないということもありますが、また、これが風刺劇だったことも大きいと思います。風刺という笑いは、その名の通り、世の中の事柄にちくりと刺すように揶揄することで作り出される笑いですが、その前提として、風刺対象となる事物の存在を容認するということがあります。「今の政治家達はどれもこれもろくでなしだ、それでも彼らは自分達の為政者だしリーダーだし、この国はこいつらによって治められていてどうしようもない。」風刺という笑いはそんな現状に対する諦観と容認があるときに、もっとも効果を現すのではないでしょうか。それが証拠に、スターリン・ジョークなどに代表されるように、風刺は独裁政権に付きものですよね。ダメな現状を変えていこうという希望があるときには、政治は風刺でちくりと攻撃するのではなく、正面きって否定すればいいわけです。どうも、Laneはその辺勘違いしていたように思えてなりません。もちろん、彼の志は立派で買わせていただきますが、それが風刺演劇という形で成されるのが効果的かどうかは別問題です。。
では、風刺劇としては残念ながら強力とはいえないこの作品を私達はどのように楽しんだらいいのでしょうか?私は“The Frogs”を古代ギリシャの市民達が何千年前に行った観劇体験を現代において追体験するための作品と捉えることがいいかと思います。言ってみれば、
「時:現代、場所:古代ギリシャ」
がBeaumont Theaterに現れたと思えばいいのです。(やった!つながった!)
この作品には、風刺の他に華やかな踊りや歌がバラエティ・ショウのごとく盛り込まれています。要するに、これって、古代のギリシャ喜劇の世界をそのまま現代に再現したものと考えていいのではないでしょうか?私は古代ギリシャの演劇事情には全くの素人でありますが、古代にあってはエンターテイメントの形態も未分化で、芝居イコール、エンターテイメントみたいな部分があったのは確かだと思います。もちろん、その当時に、Stroman振り付けによる踊りなんてのは無かったでしょうが、ま、これは時代が発達した恩恵ということで。
つまりこういうことです。我々が“The Frogs”において行う体験は、古代ギリシャでアテネの市民達が行ったものがそっくり現代において再現されたものなのです。だから、この作品は素直にギリシャ喜劇がタイム・スリップしてきたような作品、いってみれば、「冥途で起こった奇妙な出来事」(もちろん、Burt SheveloveとStephen Sondheimが組んで作ったもう1つの古典劇に題材をとった作品「ローマで起こった奇妙な出来事」[“A Funny Thing Happened on the Way to the Forum”]からのもじりです。)として楽しめばいいのだと思います。ただ、一言付け加えておかなければならないのは、この態度はLaneが目指していた方向とは違っているということです。彼は“The Frogs”は“A Funny Thing Happened on the Way to the Parthenon”(「パルテノン神殿で起こった奇妙な出来事」)ではないと断言していますが、私は彼の意図に反しますが、そうだと断言します。それでいいと思っています。アテネの市民達が、“The Frogs”のオリジナルに笑い、政治家達を馬鹿にしてさっぱりした気分になってカタルシスを得て劇場を去ったように、現代のNYer達は、Nathan Laneの名演に大笑いし、Bushが再選されたことを嘆き(ここはNYCですからね)、束の間のカタルシスを得る、それでいいのだし、芝居にそれ以上のものを求める必要も無いのだと思います。Lernerが著書の冒頭で述べたように、世の中をどうかえるかという問題は劇場を出て次の日に考えればよろしい。
最後に出演者達についても少々。Nathan Lane、さすがですね。今、B’wayで客が呼べる一番の男優は彼で間違いないでしょう。ただ、今回はどうも政治的なメッセージをまじで伝えようとしている節があって、そのへんが笑いに徹しきれずに逆に効果を落としているようには見えました。Roger Bartはサイド・キックがめちゃくちゃ似合う俳優ですね。彼は“Triumph of Love”でもサイド・キック役を見事に演じてましたし、今回笑いのパワーがやや落ち気味のLaneを補って大活躍していたのは彼だったような気がします。
「時:現代、場所:古代ギリシャ」
そしてこれは、結果的にこの作品の内容を最も端的に伝える一言ともなります。今回のお話は何やらあちこちに跳びそうで、読者の皆さんを振り回すことになるんじゃないかと、やや不安なのですが、最後には必ずこの台詞に戻ってきます。ですから、辛抱してお付き合いいただけたらと思います。
ミュージカルの歴史を著した本の中で(ね、跳んでるでしょ)、恐らくや最もよく読まれているもののひとつがAlan Jay Lernerによる“The Musical Theatre: A Celebration”(邦訳:「ミュージカル物語:オッフェンバックから『キャッツ』まで」千葉文夫・星優子・梅木淳子訳、筑摩書房、1990年)ではないかと思いますが、この本は作者のこんな言葉で始まります。ちょっと長いけど引用してみます。
「石の観客席の時代から今日にいたるまで、人々が芝居を見てとくに何かを勉強したとは、どうも考えにくい。観客がさまざまな感情をそっくりそのまま体験し、笑いをくすぐられたかと思えば、今度は涙を誘われ、言葉の壮麗さに刺激され、心惑わされ、興奮状態に陥るということは確かにあるだろう。しかしながら、劇場を出る段になって、本当の意味で知的変化を遂げているなどということがありうるだろうか。決してないはずだ。
むしろ芝居が果たしうることはといえば、切符をもっている人々を楽しむ集団に変え、いったん幕が下りれば、座席のあいだを通って外に出て、我を忘れて束の間の休息を味わった後で、さっぱりした気分になって現実世界に舞い戻らせる、そんな役目なのである」(邦訳3p)。
これはミュージカルの歴史を綴った本の書き出しとしては意外な言葉です。しかもそれを書いたのがLernerであるならなおさらです。Lernerといえば不朽の名作“My Fair Lady”の脚本家であり、作詞を行った人なのです(作曲はFrederick Loewe)。その彼が芝居なんて一時の現実逃避のお楽しみと言い切ってしまうなんて…。でも、私は彼に賛成です。芝居というものは、観客がすでに持っている知識を優雅な言葉で表現しなおして新鮮味を与えたり、言葉で理解していることを舞台上で行われる視覚的・聴覚的な(疑似)体験として強化したりすることはあっても、人は芝居を観て考えが変わるというようなことはないのではないでしょうか。ミュージカルの中にはずいぶん社会性の強いメッセージを持ったものがあります。例えば“Ragtime”はアメリカの歴史の中の人種問題が話の大きな縦軸となっていますね。主人公の黒人ピアニストColehouseが、その人種ゆえに不当な扱いを受け、妻を失い、その復讐のためにテロ活動に参加し、最後には殺される、そんな姿を観てあなたは同情し、涙して、人種差別はよくないと思うかもしれません。でもそれはもともとあなたが人種差別はよくないと思っていたのであって、芝居が果たしたのは、それに(虚構とはいえ)具体的なイメージを与えて強化しただけです。賭けてもいいけど、もともと人種的偏見を持っていた人で“Ragtime”を観てそれを無くしたり弱めたりした人はいないと思う。観劇体験の本質というのは虚構世界の疑似体験によるカタルシスであって、人が現実世界にどう立ち向かうかという問題とは一線を画しているのだと思います。
さて、この“The Frogs”ですが(また跳びましたよ)、プロットはこんな感じです。世の中の荒廃を嘆く演劇とワインの神Dionysos(Nathan Lane)が人々を正しい行いに導くにはそれを芝居で表現するのが一番と考え、その書き手としてGeorge Bernard Shaw(Daniel Davis)を選びます。当然この世にはいないShawを蘇らせるべく、Dionysosは奴隷のXanthias(Roger Bart)を伴って黄泉の国へと向かいます。そこでShawとWilliam Shakespeare (Michael Siberry)の「文芸決闘」に立ち会うこととなり、最後にはShawの替わりにShakespeareをつれて現世に戻ることとなります。
(以下の話には“Lincoln Center Theater Review”のNo.38の“The Frogs”の特集号のいくつかの記事を参考にしています。)
脚本には3人がクレジットされています。もととなったのが古代ギリシャのアテネの劇作家Aristophanesが紀元前405年に作り上げた同名の喜劇。その時のDionysosの目的は、衰退した喜劇の世界を救うべく、黄泉の国にいって最近亡くなった偉大な喜劇作家を連れ帰って再び喜劇をかかせるというものでした。ただ、その過程で語られる台詞には全面に政治風刺が散りばめられていて、喜劇としての売りはそこにあったようです。これが作られた当時のアテネはペロポネソス戦争という長い戦争の最中で、市民達の間には世の中への不安と、為政者達への苛立ちが蔓延していたようで、政治風刺劇はそれらを笑いという形で発散させるのにぴったりだったようです。
その古代の喜劇をミュージカルとして1974年に作り変えたのが、Burt Shevelove(1982年没)です。彼にははそれ以前に、やはり古代劇をもとにして、“The Frogs”の作詞・作曲家であるStephen Sondheimと組んで(あと、Larry Gelbertも参加)作ったミュージカル、“A Funny Thing Happened on the Way to the Forum”という作品があります。ここでのDionysosの黄泉の国への旅は、荒廃した演劇の世界を救うべくShakespeareを連れて帰るというものに変更になっています。当時の演劇、特にミュージカルというのは、いわゆる黄金時代のミュージカルが衰退し始め、“Hair”、“Oh! Calcutta!”といったそれまでの作品とは全く違った傾向の作品が現れ始めており、ミュージカルはいったいどこへいくのだろうという期待と不安の意識が演劇に関わる人たちの間にあったようです。それらを背景として、Sheveloveは演劇界を皮肉るというやや内幕パロディ的な作品に仕上げたらしい。(政治的な風刺も入ったいたのかもしれませんが、1974年版の脚本を読んだことがないのでわかりません、ごめんなさい。)
1974年版は、イェール大学の学生によって大学のプールを利用した舞台で演じられた40分程の短い作品で、その時のコーラスにMeryl Streepなどの後に有名になる俳優が入っていたというので演劇マニアの間で語り草になっています。そういう特殊な作品なので、その後演じられることもなく、お蔵入り状態だったわけですが、スコアを書いたのがSondheimだったこともあり、これらの曲をすべて通して聞いてみたいという人は数多くいたのでしょう。それが彼の70歳の誕生記念コンサートで実現します。そこでDionyososを演じたのがNathan Laneです。(これが後にCDにもなります。)Laneは以前からこの作品のことを知っていて、“Forum”を作ったコンビの作品でありながら、普通の喜劇とはちょっと違った深い内容を持った作品と認識していたそうです。
そのLaneが2001年の9月11日のあの事件に出会うところから、この公演へのプロセスは始まります。多くのアメリカ人(アメリカ人だけでもないと思うが)と同じように、国内で大規模なテロが起こるという事態に世の中への不安を感じたLaneは、演劇の力によって何か世界を変えることに貢献できる方法はないかと思索し、そこで“The Frogs”のことを思い出します。戦争という時代背景のもとで、黄泉の国から偉大な劇作家を連れて帰って新たな喜劇を書かせることで人々の心を癒すという内容のAristophanesのオリジナルの脚本や、それをミュージカルとして脚色したSheveloveの作品にある種の理想主義を見出したLaneはこれを今演じることで同じような、理想主義的メッセージを伝えられるのではと考えました。そこで“The Frogs”を21世紀の現代に沿った内容に自ら書き直す決意を行います。かくしてDionyososの使命は演劇界を救うのではなく、荒廃した世の中を救うという壮大なものに変更になります。
そんなわけで、脚本にクレジットされているAristophanes、Shevelove、Laneのうち、今回のバージョンと公演の中心となるのはLaneであるといっていいでしょう。最初は彼が自ら脚本を書いて監督するつもりだったようですが、監督まで引き受けるのはあまりに仕事の負担が増えすぎるというので、その役割としてSusan Stroman(Laneの名声を不動のものとした“The Producers”の監督)に白羽の矢を立てますが、そこで彼女を動かすためにLane自身がDionyososを演じてもいいと提言し、彼女はそれを受け入れます。(そりゃそうだわな、Lane主演でSondheim作詞・作曲のミュージカルを監督できるという機会に食指が動かないわけはない。)ただそのためには40分程度の作品を独立したB’wayの作品として公演できるよう新たに曲を書き足す必要がありました。その協力をSondheimから得ることで現行版は完成するわけです。
ここまで辛抱して付き合ってくださった方それだけでもありがとう。延々と作品の成立背景を語るばかりで、作品の内容に少しも触れないので、苛立ってウィンドウを閉じてしまった方もいらっしゃるかもしれません。でも、この“The Frogs”を語るには、作品の成立のプロセスと、そこで作者達、特にその中心にいるLaneが何を考えていたかについて理解している必要があると私は思うのです。
さて、やっと作品そのものの話に入れるわけですが、お話しの縦軸となるのはすでに述べたように、DionyososとXianthiasの二人の黄泉の国への旅です。死者の世界へ行くだなんていやだと渋るXianthiasを無理やり説き伏せて、ついでに旅の大荷物を引きずらせながら、彼らの旅は始まります。途中でHerakles(Burke Moses)のところに立ち寄って、身を守るための棍棒を手に入れたりします。誰から身を守る必要があるのでしょうか?それは蛙です。そう、あの蛙です。
正直に告白しますが、この作品を観ている間、私はついに蛙がいったい何を意味しているのかわかりませんでした。蛙がDionyososの旅を邪魔しようとしているというのは分かったのですが、それ以上には深く考えてはいませんでした。このキャラがタイトルになっているぐらいできっと重要なのだろうと思ったにも関わらず。で、あとでLincoln Center Theater Reviewを読んで分かったのですが、蛙たちというのは、世の中を憂いそれを変えようとするDionyososの英雄的な行動に冷淡な視線を投げかけるアテネの市民達の象徴なのだそうです。そういわれてCDを聞き返してみると確かに蛙たちの歌は「何をそんなに張り切っているんだい、何をしようが世の中変わるわけないよ、今のままでいいじゃないか」という現状容認のメッセージを歌ったものです。こんな大事な部分を分かっていなかった私がこの作品について語る資格があるのかしらんと不安になったりもしますが、とにかく先に話を進めます。
三途の川にたどり着いたDionyososとXianthiasは船頭のCharon(John Byner)の渡し舟に乗って、途中蛙たちの妨害にもめげずに黄泉の国にたどり着き、そこの神であるPluto(Peter Bartlett)にあってShawを連れ出す許可を得て、彼を探しますがその過程で、死者の国の美女達に踊りなどで歓待を受けたりしてお楽しみの時間を過ごします。ようやくDionyososはShawを見つけますが、その彼はShakespeareと口論になり決闘を申し込んだところでした。Dionyososはとっさにその決闘を文芸対決として行う事を提案し、自らお題を出す審判となります。その過程でShakespeareが人間を表現する詩的表現に心をうたれたDionyososは当初の予定を変えてShakespeareを連れて帰ることにします。
とまあ、粗筋を極端に端折って書いてみましたが、この作品の肝となるのは、これらのストーリー展開の中に様々な形で織り込まれている政治風刺です。Sondheim自身もインタービューの中で、プロット自体には特に大きな意味はなくて、その中に織り込まれる風刺こそが重要なのだといってました。
…あれ?
でも…
なんか変じゃないかい?それってLaneが最初に言ってたことと微妙にずれてるぞ。LaneはDionyososが黄泉の国から作家を連れてきて世の中を変えようとする試みに一種の理想主義を見出しているようだし、蛙たちとの関係などの部分を見ると確かにそうした意図がプロットの中にあるように見えます。でも、作詞・作曲したSondheimはそのような部分には意味を見出していないようです。こうしたことから分かるように、この作品は必ずしも作者達の意図がすべて一枚岩となってひとつのコンセプトを訴えかけるために出来上がったものとは言いがたいようです。
では、もう1人の重要な製作チームのメンバーであるStromanはどう捉えていたでしょうか?彼女へのインタビューを読むと、StromanはLaneがこの作品を通じてやろうとしていたことは理解していたようです。でも、同じインタビューで彼女が製作過程について語っているのを読むと、どうやら彼女は自分で強いコンセプトを持って、それを舞台上で具現化していくというタイプの演出家ではないようです。むしろ、プロット、スコア、俳優など与えられた要素を素材として、それらの長所を取り入れつつ纏め上げるタイプと言えそうです。ですから、このLaneの思いも、彼がそれを舞台上で演じた以上のものとしては現れていなかったのではないでしょうか。
ここまで述べた後ならば、読者の皆さんは私がこの舞台をどのように捉えたかというのも理解していただけるのではないでしょうか。この“The Frogs”、確かによくまとまっているのですが、どうも何かが弱いのです。特にLaneが伝えようとしていたメッセージは私には伝わってきませんでした。どうやらその原因の1つはLaneがこの作品を通じて伝えようとしたメッセージが必ずしも他の製作チームの共鳴を得ていなかったのではないかと思うのです。もちろん、反対はしていなかったでしょう。でも、製作チームが一枚岩で無いと、ある作者の1人の意図が全面に出てきにくくなるだろうというのは想像に難くないと思います。
Laneがこの作品を通じて世の中の問題を演劇を通じて少しでもいい方向に持っていけるのではないかというメッセージがうまく伝わらなかった理由としては、すでに述べたように作者達の思いが必ずしも1つにまとまっていたとはいえないということもありますが、また、これが風刺劇だったことも大きいと思います。風刺という笑いは、その名の通り、世の中の事柄にちくりと刺すように揶揄することで作り出される笑いですが、その前提として、風刺対象となる事物の存在を容認するということがあります。「今の政治家達はどれもこれもろくでなしだ、それでも彼らは自分達の為政者だしリーダーだし、この国はこいつらによって治められていてどうしようもない。」風刺という笑いはそんな現状に対する諦観と容認があるときに、もっとも効果を現すのではないでしょうか。それが証拠に、スターリン・ジョークなどに代表されるように、風刺は独裁政権に付きものですよね。ダメな現状を変えていこうという希望があるときには、政治は風刺でちくりと攻撃するのではなく、正面きって否定すればいいわけです。どうも、Laneはその辺勘違いしていたように思えてなりません。もちろん、彼の志は立派で買わせていただきますが、それが風刺演劇という形で成されるのが効果的かどうかは別問題です。。
では、風刺劇としては残念ながら強力とはいえないこの作品を私達はどのように楽しんだらいいのでしょうか?私は“The Frogs”を古代ギリシャの市民達が何千年前に行った観劇体験を現代において追体験するための作品と捉えることがいいかと思います。言ってみれば、
「時:現代、場所:古代ギリシャ」
がBeaumont Theaterに現れたと思えばいいのです。(やった!つながった!)
この作品には、風刺の他に華やかな踊りや歌がバラエティ・ショウのごとく盛り込まれています。要するに、これって、古代のギリシャ喜劇の世界をそのまま現代に再現したものと考えていいのではないでしょうか?私は古代ギリシャの演劇事情には全くの素人でありますが、古代にあってはエンターテイメントの形態も未分化で、芝居イコール、エンターテイメントみたいな部分があったのは確かだと思います。もちろん、その当時に、Stroman振り付けによる踊りなんてのは無かったでしょうが、ま、これは時代が発達した恩恵ということで。
つまりこういうことです。我々が“The Frogs”において行う体験は、古代ギリシャでアテネの市民達が行ったものがそっくり現代において再現されたものなのです。だから、この作品は素直にギリシャ喜劇がタイム・スリップしてきたような作品、いってみれば、「冥途で起こった奇妙な出来事」(もちろん、Burt SheveloveとStephen Sondheimが組んで作ったもう1つの古典劇に題材をとった作品「ローマで起こった奇妙な出来事」[“A Funny Thing Happened on the Way to the Forum”]からのもじりです。)として楽しめばいいのだと思います。ただ、一言付け加えておかなければならないのは、この態度はLaneが目指していた方向とは違っているということです。彼は“The Frogs”は“A Funny Thing Happened on the Way to the Parthenon”(「パルテノン神殿で起こった奇妙な出来事」)ではないと断言していますが、私は彼の意図に反しますが、そうだと断言します。それでいいと思っています。アテネの市民達が、“The Frogs”のオリジナルに笑い、政治家達を馬鹿にしてさっぱりした気分になってカタルシスを得て劇場を去ったように、現代のNYer達は、Nathan Laneの名演に大笑いし、Bushが再選されたことを嘆き(ここはNYCですからね)、束の間のカタルシスを得る、それでいいのだし、芝居にそれ以上のものを求める必要も無いのだと思います。Lernerが著書の冒頭で述べたように、世の中をどうかえるかという問題は劇場を出て次の日に考えればよろしい。
最後に出演者達についても少々。Nathan Lane、さすがですね。今、B’wayで客が呼べる一番の男優は彼で間違いないでしょう。ただ、今回はどうも政治的なメッセージをまじで伝えようとしている節があって、そのへんが笑いに徹しきれずに逆に効果を落としているようには見えました。Roger Bartはサイド・キックがめちゃくちゃ似合う俳優ですね。彼は“Triumph of Love”でもサイド・キック役を見事に演じてましたし、今回笑いのパワーがやや落ち気味のLaneを補って大活躍していたのは彼だったような気がします。
by sabrekitten
| 2004-11-16 00:00
| (Fake) Reviews